電車の風景

1999年開設したHP「阪神電車の風景」の書庫としてスタートしました。 阪神以外にもテーマを広げていくため「電車の風景」と変更しました。

2022年01月

魚崎駅から大阪梅田方向に一駅進むと青木駅です。
青木は「おおぎ」と読みます。
2019年、魚崎ー芦屋間が上下線共に高架化されたため、地上駅時代の写真は貴重なものになってしまいました。その地上時代の2004年7月の写真です。

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当時の阪神地上駅標準の地下改札へ降りる駅入り口が山側浜側に各1ヶ所ずつあります。
ホームは2面4線の島式ホームで、これも待避線の多い阪神の標準型といえます。 
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この写真のみ1984年ですが、2004年までほとんど変わっていません。
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青木駅は普段は待避線は使いません。区間特急の退避と青木始発の区間急行発着に使うくらいです。ですが野球シーズンには臨時列車の回送待機に使っているので重要な設備です。
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地下改札の情景。これも昔の阪神標準です。
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青木駅が最も有名になったのは1995年阪神大震災の時、初めて神戸市内まで電車が乗り入れたのが阪神電車であり、その駅が青木駅だったからでした。
筆者は魚崎に住む親戚宅が倒壊したのでその片付けに向かうにあたり、阪神電車が甲子園から青木まで部分復旧するというニュースを見て大変感動しました。行き先表示器には青木の文字はないので紙製の表示が前面窓に貼られていました。写真は1995年1月28日。
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ところで青木は難読駅名の一つです。以前のホームページに記述していた文です。
                                        
先日、このホームページをご覧になった青木在住の方からご指摘いただきました。

筆者は阪神の青木を「おうぎ」と読み仮名をふっていました。これは大物(だいもつ)などと同じように他の地域では読めない漢字の地名だったので「あおき」とは呼んで欲しくないからでした。ところが阪神の駅標示などは「おおぎ」だったのです。このHPでは青木は阪神の駅名を指すので、ここに訂正します。ご指摘ありがとうございました。

ところで、筆者がやっとひらがなが読めるようになった頃、駅名には「あうぎ」というふりがながあったと記憶しています。わざわざ叔父に尋ねて「あ」を「お」と読むと教えてもらったことも覚えています。

今回改めてホームページを頼りに調べてみますと、以下のURL(青木地区センターのHP)に地名の由来が出ています。

http://www.warp.or.jp/~kiraku/ogi.htm

これによればもともと青亀の上がった浜が由来で「あふぎ」と仮名で書いたそうです。新仮名遣いに改めて「おおぎ」となったようです。通常「あふ」は「おう」になるのであって、「扇」(あふぎ>おうぎ)がそうです。「あお」が「おお」となった例では「仰ぐ」(あおぐ)が「仰木」(おおぎ)があります。実際現地でも「おうぎ」の表記は見られるようですので、完全に間違いではないものの阪神電車の「青木」は「おおぎ」であることは先に述べたように明白です。

いただいたメールからちょっと調べた結果報告でした。

2004.6.27
 
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まあ「おうぎ」表記もありますが、阪神の駅名は「おおぎ」(o-gi)です。 


 

この記事の写真は2002年当時最新のコンデジNikonE990で撮影したのですが、今となっては色が再現できず薄い色になってしまいましたが、それも時代ということで。
2002年4月30日に撮影した魚崎駅から青木駅方向に散歩したときの”記憶”写真を紹介します。

現在の魚崎駅は六甲ライナーと接続する橋上駅舎です。
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山側の道路を梅田方向(東)へ歩き出しました。
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1979年の写真です。同じようでホームの長さとかマンションとか違いますね。
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細い側道は、いま(2002年)工事中。震災後、立て直したお宅はすべてセットバックをとって、道路へ土地を提供したのです。各ご家庭の事情まで伺い知ることは出来ませんが大変なことです。
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この区間は近く高架化工事にかかります。その工事用敷地ということもあって道路が広がります。
魚崎から青木まで天井川である住吉川から急勾配で下ります。
半地下道の山側入り口。
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 その浜側入り口。
この区間はまだ築堤なので南北の生活道路が踏切ではなく”立体交差”です。
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ここは「地蔵前溝橋」。震災前はお地蔵さんがいました。
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立体交差とはいえ、1.4mの高さ制限。ここを自転車で抜けていくおばさんはさすが地元。
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魚崎横屋踏切。このとなりの横屋東踏切は「十二間道路」といわれる広い道路だが、こちらは自動車禁止。
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梅田からの電車はやや右カーブして魚崎へ加速。良い構図。
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阪神公式ページ「まにあっく阪神」(*現在廃止)の「歴史のある風景」でも紹介された川のない橋。「横屋避溢(ひいつ)橋」と言います。
かつての阪神大水害のような洪水時に阪神電車の軌道は土嚢代わりになるのですが、一部下流へ水を流すためだそうな。もちろん今ではそんなことはないでしょうが。
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ここも結構いいポイントだ。
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「天井川(川の名前)」のほとりにお地蔵さん。
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青木(おおぎ)駅は明治時代から待避線付きの駅。震災時には初めてこの駅まで開通したとき、他の鉄道に先駆け神戸市内に乗り入れたと、ニュースになった。
高架工事の工事完成予想図がありました。
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この記事は2002年1月に書いたものです。元は「阪神電車の風景」阪神の再起としてホームページにアップしたもので、それからもう20年、阪神大震災から27年経ち、古い記事になりましたが阪神電車を語る上で重要なものなので、再掲します。ネタは20年前のものなので訳のわからない人も多いと思いますが時代の雰囲気ということで。

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成人の日は今年は1月13日、数年前から必ず連休になった。思えば8年前、1月15日は日曜日で、月曜日の振替休日とで連休だった。8年目の1月17日が来る。

筆者は神戸在住ではないので、震災は体験していない。しかし見慣れた場所が一転、被災地となってしまった喪失感というものは、今でも忘れない。体験していない者がそれを語ることは出来ない。せめて私の好きな阪神電車がどう再起したのか書き留め、自分の記憶に留めていきたい。

昨年2002年に、筆者個人のホームページに書いたものを再び以下にまとめる。

2003.1.15 NAKA-MA


阪神の再起-1

7年目の1月17日が過ぎた。

オリックス練習場でのイチロー選手が報道されていたが、この日を自主トレ開始の日にしたかった、と答えていた。1995年のオリックスブルーウエーブはイチローの大活躍でリーグ優勝し、神戸のプロ野球チームとして復興の証になった。さて、一方の、阪神タイガースも開幕当初、期待されたが、中村監督の途中辞任、藤田監督代行の不振で定位置最下位に終わった。阪神は大阪の球団やから・・という言い訳が聞かれたが、実際にはブルーウエーブ本拠地グリーンスタジアム神戸のある西神地区は地震の被害はほとんど無かったのに対し、阪神甲子園球場のある西宮市は大きな被害を受け、甲子園球場自身一部破損している。そんな阪神が優勝することが神戸市民の期待でもあったが、がっかりする結果ばかりで、オリックスはこの期に一気に神戸市民球団の名声を得ることが出来たと言って良いだろう。
2002年、タイガースに関しては星野新監督就任、田淵コーチ就任が野村前監督の後味の悪い辞任劇を一掃してくれたが、肝心の選手は、川尻投手が大リーグ移籍問題でもめたまま、藪投手はエースナンバー18の剥奪(新背番号は4;)、坪井選手は故障が癒えず応援ホームページも閉鎖・・・。どうも良い話題が書けそうにない。

1995年1月17日、阪神地区に起きた未曾有の天災によって、阪神電鉄はまさしく瀕死の状態であったが、会社存亡を賭けて再起を果たした。阪神電車など鉄道の再建はまさしく神戸市民の再起の希望だった。それから7年目の今も、このときの打撃の影響は残っているが、会社規模の大きなJR西日本、阪急電鉄に果敢に挑んでいる。
タイガースで書けない代わりに阪神電車の再起とその後の挑戦をこれからまとめてみよう。

(2002年1月18日)

阪神の再起-2

1.1995年1月17日状況

午前5時45分までの阪神電車は、成人の日の振り替え休日明けの平日がスタートしたところだった。すでに始発電車は走り始め営業車は12列車、来るラッシュ時に備え、続々と電車が車庫から回送されつつあった。そして1分後、地震が起きた。

1-1.車両被害状況

12営業電車のうち神戸市内走行中の4列車が脱線などの被災した。そして各電車とも負傷者が多数出たものの、幸い死者はなかった。まだ各駅停車(普通電車)の運行しかなく、時速65km以下での被災だったためもあろう。しかし、落下した大石付近の高架橋の上に電車があり、また神戸市内地下隧道の中ではその周囲の状況を考えると、列車停止後の方が脱出に困難を極めたに違いない。
しかし、阪神にとっては車庫に留置中の電車が被害を受けたことが打撃を大きくした。神戸市の石屋川駅と新在家駅の間にある、石屋川車庫は後述のように、高架車庫であったが、崩壊。留置していた58両が脱線、高架ごと落下、その隣にある御影留置線の36両も脱線、一部転覆した。
(当日の報道では、御影の転覆した電車をヘリから空撮した映像が繰り返し流れた。しかし御影と正しく報道したところは皆無であった。)

阪神保有車両314両中、実に126両が被災した。 

1月28日、青木(おおぎ)付近で放置されている5261形。この時は青木駅まで開通していた。脱線し、架線柱と衝突したのか側面上部が凹んでいる。パンタグラフも破損している。この編成は修理され復帰した。

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1-2.施設被害状況

西宮の赤煉瓦変電所が崩壊し、変電設備はそれより神戸方では壊滅した。従ってすぐに運行再開できる状況ではなかったが、それ以上に深刻なのは軌道の崩壊であった。御影から西灘にかけての1967(昭和42)年完成の連続高架橋が全壊した。同時期に完成した石屋川車庫は珍しい高架車庫であったが、人工地盤が崩落し高架橋と運命を共にした。一方、住吉-御影間の高架は1929(昭和4)年完成であるが無事だった。また、魚崎-住吉間、御影留置線、石屋川駅、西灘付近の盛土築堤は土が流出崩壊した。盛り土は明治の創業期に近くの住吉川、石屋川の川砂を盛ったもので地震に対しては脆弱な地質であった。岩屋から三宮の地下隧道(1933年完成)や三宮-元町地下隧道(1936年完成)は、内部で車両が側壁に激突、破損したりしたが、構造上の問題はなかった。元町から先の相互乗り入れ先である神戸高速鉄道は大開駅が崩落した。
一見、戦前の高架が無傷なのに高度成長期の高架が全壊していることから、施工強度の問題を感じるが、それだけではなく、わずか100mの距離で建物の倒壊状況が変わるくらい、地質と振動状況がまだらであったことを示している。そしてJR西日本では高架区間の六甲道付近、阪急では西宮北口から夙川の高架区間が崩壊していることから、・高架、盛り土区間は地平に比べ脆弱であること・被害区間が南北には関連が低く、東西の帯状に広がっていること・特に南(海)側は、海、河川の堆積砂の地質であるためそこをを走る阪神の被害が大きいことこと、などが考察される。

いずれにせよ、阪神間にしか本線を持たない阪神電鉄の被害は甚大であった。

(2002年1月20日 )

阪神の再起-3

2.運転再開

2-1.1995年1月18日

翌日には梅田-甲子園間が部分開通した。阪神電鉄は尼崎と石屋川に車庫を持っているので、尼崎車庫の車両で運行を再開できたのは不幸中の幸いだった。他社は大阪以東にも車庫を持っているので問題ないが、阪神は梅田止まりなので、もし車庫が石屋川一つだったら部分開通も出来なかっただろう。また、甲子園は折り返し線を持っているので通常でも甲子園折り返し準急など(野球開催時の臨時特急も)が運行されるのでダイヤが組みやすかったのだろう。

JRが芦屋、阪急が西宮北口までだったので、一番短い阪神の状況が懸念された。

なお、数日後甲子園-三宮間に代替えバスも運行を始めた。

2-2.1995年1月26日

この事態でも他社との競争意識が働いたか、阪神はこの日、青木(おうぎ)まで開通した。青木は神戸市東灘区で、大阪から初めて神戸市内まで達したと報道され、住民にも希望を与えた。青木駅には折り返し線があるものの、ホーム手前で渡るので一つのホームしか使えず、混雑で危険なため、急遽神戸よりに渡り線が新設され、降車ホームと乗車ホームが分離できた。なんと良心的な会社だろうか。

当時、筆者も親戚の応援に行くため、この阪神の延長開通がどんなに嬉しかったことか。神戸市民の唯一の足として阪神電車は機能することになる。それはJRが住吉まで開通するまで続いた。

青木駅から阪神、JR、阪急の三宮行き代替えバスが運行された。

1月28日、筆者も現地に入った。梅田から青木行き急行に乗ると甲子園までは意外に順調に走り、沿線の家も屋根に一部ビニールシートをかけた程度だった。しかし西宮の明治時代の赤煉瓦発電所がくずれ、次第に沿線の被害も大きくなってゆく。満員の乗客も次第に声がなくなる。

親戚の家のある魚崎まで青木から一駅分(といっても2キロ程)歩いた。まわりは目を疑うような光景だった。ひび割れたマンション、火災で焼け落ちた青木商店街、屋根が地面の上にある日本家屋、道路は倒壊家屋で塞がれている。四駆なら車で来られると思っていた自分の甘さに呆然とした。

魚崎小学校は避難した人でいっぱいだった。この建物は戦前のものだが、震災にも耐えた。 

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2-3.1995年2月1日

阪神は岩屋以西は地下隧道に入り、神戸高速鉄道(車両を持たない会社)から山陽電鉄へつながっている。しかし神戸高速の大開駅は地下駅だが地上の道路が陥没して崩壊した。この地下線に閉じこめられた電車のうち応急修理で再生できた阪神車2編成と山陽車1編成は、この日、阪神三宮-高速神戸間の運転を再開した。地上は大渋滞で、地下線の開通は神戸中心部唯一の公共の足となった。なお、ここには車検の出来る車庫がないので、急遽地下線内で仮の車検を行った。この区間は2月20日に岩屋まで、3月1日には西灘仮駅まで開通した。

2-4.1995年2月11日

一部崩れた住吉川両岸の築堤を補修し、御影まで延長した。住吉-御影は戦前の高架線だがほとんど無傷だったことが幸いした。

御影-西灘間は3.1キロ、筆者はカメラを持って歩いたこともある距離だ。だが阪神にとってこの距離がとても長かった。

1995年5月5日。御影駅から神戸方向を見る。高架線はとぎれ、クレーンが立っている。 

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魚崎駅にて。梅田-御影の行き先表示板を付けた5311形。

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青木-魚崎間も運転が再開された。しかし沿線の家が。

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2-5.1995年6月26日

震災から160日、真新しい高架線を阪神が走った。阪神電車、再起の日である。しかし石屋川車庫は高架橋工事作業用地に使っていたため、1996年3月1日まで再建にかかった。その間、車両が不足する中、苦心の運用を強いられた。

阪神間三線のうち最後の開通で、予想より半年も早く復旧したとマスコミももてはやした。しかし、JRに遅れた一ヶ月はこれから阪神電車に重くのしかかることとなる。

全線開通した阪神電車は手塚治虫「火の鳥」のヘッドマークをつけて沿線住民に再起をアピールした。

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(2002年1月26日) 

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3.阪神電車車両の復興

3-1.廃車車両

先述のように地震の被災車両は126両であったが、阪神の悲劇は車両基地の崩壊であった。なぜなら他社は被災車両はあっても修理して使えたのだが、阪神の場合、高架車庫から落下した車両のダメージは大きく、修理の利かない車両が合計41両にものぼった。

阪神電車は急行系と普通系で車両の性能も分けているのが特徴だが、廃車は急行系33両、普通系8両になった。

ところで大手私鉄では同じ規格の電車を大量に製造して「xxxx系」とひとくくりに語られるのだが、阪神では社内的にも「系」という呼び方はせず「xxxx形」と呼んでいた。これは先の急行系、普通系の区別の中ではほとんどが連結可能で、規格、性能を揃えてあった。そのため車両形状の違う形式同士がつながって「でこぼこ」編成になったり、逆にわずか二両の「形式」が存在したりした。(1985年以降は8000系などと称するようになった)

今回の廃車では大半は残る同型式車両があったのだが、そのなかで「5151形」が形式ごと廃車になった。

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5151形は5151-5152の二両のみの形式だった。1964(昭和39)年製であったが、1959(昭和34)年の5101、5201形以来の初期ジェットカーのボディ形状を持つ唯一の形式だった。この初期ジェットカーは筆者と同世代だったこともあり、思い入れの強い形式だった。他の形式が次々廃車された中、5151形は1980年に冷房改造、電機子チョッパ改造が施され生き残ったのだった。

5151-5152は、三宮3番ホームで被災した。同じく地下隧道で被災した2001形も廃車になっているが、連結していた車両は廃車されなかったところを見ると、5151形が異端児だったことも廃車の原因だったのかも知れない。ファンにとっては残念な出来事だった。 

3-2.修理車両

被災したものの修理により甦った車両も、相棒を失ったりして固定編成を崩し、組み替えが行われた。特筆すべきは、同じ8000系ながらも、第1編成は従来車に似たデザインであったが、第2編成以降が新デザインに変更されたのだが、この第1編成の半数が廃車になった。そこで新デザインの新8000系と組むことになった。前面デザインが梅田方と元町方で全く違うのだ。

また、普通系5261形はちょうど廃車時期だったが(5151も)、車両不足により延命された。2000年に廃車になった。

3-3.新造車両

1995年6月26日の全線開通以降も廃車の41両を欠く車両での運用が続いた。石屋川車庫の再建が9ヶ月も先になったため車両を置く場所に困ることになったこともあるが、苦心のダイヤと車両運用でまかなうにも限度がある。早急に「震災復興車」の新造が必要だった。

修理車両と組むために、どうしても欠けてしまった車両、8000系においては、8500番台をあたえることで、新造車が製作された。これは廃車となった車両から使用可能な走行関係機械などを流用して、ボディのみの新造車であった。しかも相手が一世代前のデザイン(側窓が連接タイプではなく個別タイプ)なのでわざわざ元のデザインに戻して設計された。

編成をまるまる作る車両については、復旧を急げば、従来車のまま製作するのが一番早いのだが、あえて阪神はそうせず、全くの新規設計車両とした。阪神初のVVVF制御車になる、5500系と9000系である。しかも外観色まで変えての登場だった。 

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むろん、5500系についてはもともとの計画の前倒し、9000系については、グループ会社、武庫川車両の製造キャパシティの関係で、川崎重工へ一括発注したため、という事情があったとはいえ、
思えば、終戦後、戦災車両の修理でまかなって、9年後の新性能車投入を他社に先駆けたように、今回も、地震という打撃を、車両の更新という形で前向きに再起を図る、かつての社風がそのまま生きていたとも思える。

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筆者は、阪神の心意気を感じると同時に車体色を変えたことで、一抹の寂しさも覚える。震災はあまりにも多くのものを失った。失ったものを思うが故、元に戻らないと分かっていても少しでも元の形に戻って、失ったものを忘れないようにしたいからだ。

戦後、ドイツなどヨーロッパの復興が元の町並みを復元する形で行われたのに対し、日本は全く変えてしまった。今回、神戸の町並みも明治期の日本家屋の雰囲気は全く失った。新しい耐震プレハブ住宅は新興住宅地のようだ。駅前の復興も都市計画にのっとって、立ち退きを迫られたりしている。もといた住民が戻れなくて何のための復興か。

5500系が従来の車体色で出てきたら、筆者は嬉しかったのだが、それは後ろ向きなのかも知れない。でも以前のままの車両に乗ると、乗り心地は格段に向上している、なんていうのも粋ではないだろうか。

4.その後の阪神

あれから7年。神戸市の住民数は震災前を超えたと聞く。しかし鉄道に関して言えば、震災の影響は阪神を今なお苦しめている。

特にJR西日本は震災を期に、新造車を阪神地区に集中投入、開通が一ヶ月他社に先駆けたことを最大限利用して、一時的に移った乗客を固定客にしてしまった。もともとスピードでは新快速があったので、それの乗り心地を大幅に改善した新造車と、さらなるスピードアップ、特定料金の設定で定期料金は他社より安く、大増発により待ち時間も削減・・・、国鉄時代には考えられなかった変わり身の速さで、お見事だった。

阪神は1998年、相互乗り入れしている山陽電鉄と、従来須磨浦公園までであった乗り入れ区間を姫路までに延長。阪神梅田から山陽姫路までの直通特急が誕生した。我々ファンにとっては相互乗り入れの始まった1968年以来30年来の夢が叶ったわけだが、スピードアップした新快速の敵ではなく、相互乗り入れの乗り換えを無くしただけにも見える。

山陽電車の5000系がクロスシート車で評判が良かったので、阪神も9300系を2001年に新造。1954年以来の特急のクロスシート車だ。(9300系は急行系に区分される)

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震災復興時に直通特急が設定されたら、直通特急設定時に9300系が投入されていたら、と時期が遅れた感は否めないが、それでも最大限の努力をしている。

西宮市内の高架化工事は完成した。魚崎駅西方の「松原曲線」の改良高架工事も完成が近い。そして西大阪線の難波延長、近鉄奈良線との相互乗り入れ、と希望は続く。

阪神の売り上げは震災前の3/4にまでおちこんでいる。これはもはや震災のためではない。会社存亡を賭けて、阪神電車の戦いは続く。

筆者の親戚で阪神電車沿線に住んでいた2家族はいろいろな事情で転居してしまった。神戸に遊びに行く(一時遊びに行くなんて不謹慎、などという風潮だったが今こそ皆さんにも遊びに行って欲しい)ときには阪神電車を使う必要はなくなったが、家族の迷惑を顧みず阪神電車に乗る。何と言っても梅田から摂津本山へ行くのに、阪神で三宮まで行き、阪急で岡本まで戻って歩く。;)という筆者って一体・・・。(byさくらももこ、キートン山田の声で)(*20年前のネタなので恐縮です;)

だが阪神が頑張っているのを見ると、つい応援したくなってしまうのだ。電車も野球も・・。

 

(参考文献:鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル-特集阪神電気鉄道」1997/7 640号、交友会「鉄道ファン」1997/4,5 阪神大震災 被災と復旧の記録 8.阪神電鉄)

(2002年2月3日 )

2-3.魚崎-青木間快走
2002年2月16日記述

魚崎駅山側(北側)の道を線路沿いに梅田方向へ進むと、車がすれ違えないほど狭い道となって、道からは電車が見えなくなります。やがて、南北に 走る道路と交差します。この道路は、つい最近まで神戸市バスが走っていた通りですが、阪神電車のガードは低く、道路も少し下がって、桁下高さを稼いでいま す。1965年頃は阪神のガードはさらに低く、道路も未舗装で、掘り下げた道路には雨水がたまっていました。よくトラックが立ち往生していたようです。 
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ここから先は、阪神が地平に降りてきて、道路から電車がよく見えます。線路沿いの道は隣の青木(おおぎ、昔はあふぎ、あうぎと表記)駅の手前ま で続き、そのまま青木駅まで行くことが出来ます。先のガードから、次の横屋踏切まで交差する道路もなく、南北の往来が不便です。

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ですがその間にもいくつか桁下高さの低い歩行者用ガードがありま す。この低さが尋常ではない低さで、その一つ、「地蔵前溝橋」は1.4m。 
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2001.5撮影

魚崎小学校出身の母から聞いた話では、昔魚崎小学校へ阪神の南側から通う児童が、近道をしようと線路に入り亡くなるという事故が何度かあったそうです。その供養のため 地蔵が建てられ、ガードが造られたそうです。真偽のほどは不明です。実際に、震災までこの写真の一方通行の標識付近にお地蔵さんが祠に入って祀られていま した。しかし、震災で倒壊して無くなってしまいました。
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この下にいて電車が通過すると怖いです。
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この区間、芦屋から魚崎までは阪神の中でも線形の良い所で、駅間距離も2キロ程度と阪神電車の中では長い方なので、ジェットカーも最高速度90 キロに達します。阪神ジェットカーは本当に加速が良いので、ある意味、特急よりもスピード感溢れる運転がされます。
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次にここにご覧いただく写真は、そんな最高速で走る阪神電車です。
撮影は1977年7月です。カメラはオリンパスペンEE、ハーフサイズカメラで す。このカメラも良く写りました。ネガはありませんので、プリントをデジカメで複写したものです。 

5201形
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夕方ちかい時刻だったと思うのですが、すこし赤みがかった西空がバックに、逆光の5201形です。阪神電車は東西方向に走る路線な ので、朝、夕は正面から光が当たるか、逆光か、印象的な光線状態となります。この写真はお気に入りの写真なのです。ネガはなくプリントでは夕方の色が出てこないのが残念。

7701・7601形
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この形式は5201形に次いで好きな形式なのですが、写真が余りありません。もとは3601・3701形で、1961年阪神初の付随車(電動車に付随している、モータのない車)が3701であった。1971 年に冷房改造の際、制御系をサイリスタチョッパに改造、電気ブレーキを廃止したので、7000番台になった。3501形と同じ車体なのですが、7000番台になったので編成を組まず、形状の違う7861などと組んでいましたから 「凸凹編成」などといわれていました。

7101・7001形
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日本初の電機子サイリスタチョッパ制御電車で有名?。営団地下鉄6000系が最初と思われているが阪神の方が早い。もっとも省エネ ルギーとなる回生ブレーキは備えていない。

ちょうど大阪万博のある1970年にデビューしました。当時阪神初の冷房車で話題でしたが、筆者は「なんで特急が普通車みたく両開き扉やねん」と思っていました。(それまでの急行系は客用扉は片開き扉でした)また妙におでこが広く、これも「クーラーが付いたからやな」と思っていましたがその後以前の形式も冷房化され、わからなくなってし まいました。2000系に改番され、スカートが付いています。

7801・7901形(最終形)19770803-6

上の7001形と組むため、7801形増備車ながら車体形状と冷房装置を同じくしたため、全く別形式に見える。阪神では形式を急行系では3000番台が電気ブレーキ付き、7000番台を空気ブレーキのみ、と区別し、その中ではどの形式とも組めるよう性能を揃えていたので自由に編成が組めた。
形式の解らない当時は7001形と区別できなかったのですが、後にそれ以外の7000番台と編成を組むようになったため、「凸凹編 成」が際だっていました。現在は2000系として旧7001形と固定編成を組んで、きれいな編成になっています。
 

7801・7901形(初期型)
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1963年にデビューしたこの形式は、1971年まで増備され、一時は阪神電車のなかで一番大所帯の90両を数えた。だが、先述の ように見た目は三種類に分かれる。初期型は片開き扉、正面が完全平面、正面幌の埋め込み廃止、車体下部のR(丸め)廃止、と客室内も運転席後座席廃止、蛍 光灯カバー廃止。
阪神の中では武骨な印象の車両で、筆者はあまり好きではありませんが、写真に撮ったのは一番多く、写真写りは良い感じがします。電 車好きは運転台の後に乗りたがりますが、他の4両固定編成(7001、7701)が先頭はTcでモータがないのに対し、この形式はMcなので、走行中の モータの唸りが大きく、よりスピード感がありました。3000系に改番されて現存しますがもうすぐ無くなる車両です。

5261形(初期)

 5151形(冷房、電機子チョッパ改造後)
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この写真だけ1984年のものです。5151形は5151・5152の二両のみ、1964年製、初期ジェットカーの最終形である。1980年、冷房改造、回生ブレーキ 付き電機子チョッパ改造。阪神初の省エネカーとなった。
1995年、廃車間近の頃、阪神大震災で被災、廃車となる。
これは好きな車両でした。二両だけなので写真に撮る機会が少なく、カラー写真がありません。前側パンタグラフを維持して冷房化され、初期ジェットカーの面影を残していただけに、無念の廃車でした。



(2002年に書いたもので、内容はその当時のものです)

2-2.住吉川鉄橋で見た阪神電車
2002.2.16記述

以下の写真は、1972年以前に撮影したものです。ネガは現存しないので、今は懐かしい絹目プリントのスキャン画像です。カメラもペトリ(知っ てますか?)。父親のカメラを持ち出して撮影したので阪神電車ばかり撮ると怒られました;)
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5231形5250
初期ジェットカーの後期型。大型前側パンタグラフ、埋め込み幌、バランスの取れた前面。廃車後も台車、モータは5131、5331 形に転用された。 

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5201形5202-5201
5201形ファーストナンバーはステンレス車。二両のみの試作的車両で、5203以降は普通鋼製青胴車。ジェットシルバーの愛称が あった。二両のみの希少価値で人気があったが1977年廃車 

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7861・7961形
二両編成の西大阪(N)特急。本線特急より速かった。三宮から西九条行き。今ならUSJ行きだろうか。1974年12月廃止*。 7861・7961形は現存。
線路際の松が美しい・・。
(*休止が正式。当時の鉄道ピクトリアル阪神特集303号には廃止とある。事実上廃止ということか。>10年後なんば線快速急行として復活) 

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5001形(初代)5001
日本一の加速性能を誇る「阪神ジェットカー」の先行試作。5001-5002のみの形式だった。新製時は正面二枚窓(旧湘南型)、 クロスシート!。色はクリームに緑だったと言うが見た記憶がない。(1960年改造)1977年廃車。 

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5261形
冷房改造される前の姿。神戸の夏は暑い。阪神電車は車両の冷房改造に熱心で、大手私鉄で最初に全車冷房化した。そのため従来車の廃 車が早まった。
5261形は冷房化後も生き長らえ、2000年廃車 

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5201形
魚崎駅に進入・停車する各駅停車、ジェットカー。 

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5201形
住吉駅へ加速するジェットカー。上のジェットカーと比べると埋め込み幌の金枠がグレー塗装である違いがある。3801、新5001 以降ではこのグレー塗装が標準になったが、それ以前の形式はボディと共色だった。従って比較的珍しい写真である。 

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7801・7901形
三宮方向へは勾配を駆け下り、松原曲線を抜けて行く。70キロの速度規制があるので、最高速度106キロできた特急は急ブレーキを かけて坂を降りてゆく。 

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新5001形
1977年、ジェットカーの冷房化推進のため新造された。この写真は1983年撮影。景色はそれほど変わっていない。その後六甲ラ イナー開通によって大きく変わった。

2.魚崎風景の記憶
2002年2月16日記述
ここでは、少し(大分?)昔の阪神電車魚崎駅で撮った写真にお付き合い下さい。
二大都市間とは思えないのどかな風景と、そこを爆走する阪神電車です。
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2-1.少し前の魚崎駅の風景 1983年

阪神魚崎駅は神戸市東灘区、住吉川の畔にある駅です。

阪神電車の駅は川の上にある駅(芦屋、武庫川)や川の畔にある駅(淀川、香櫨園、石屋川など)が数多くあります。阪神間の特徴として天井川とい う、川底が周囲の土地より高い位置にあるという特殊地形の影響で、線路も勾配の頂上に駅があります。最近は高架化されてはっきり分からないようになりまし たが、阪神芦屋駅と魚崎駅はアップダウンの激しい線形が残っています。近年、魚崎駅西方、松原曲線が改良高架化されました。



一枚目、二枚目の写真は、住吉川西岸の道路から、魚崎駅方向(梅田方向)を見た構図で、筆者が子供の頃、阪神電車を見る定位置で あった。
一枚目は、浜(南)側から山(北)側を望んだ、住吉川鉄橋が最もきれいに見える位置である。鉄橋そのものは短いが、電車の足回りが 至近距離で見える。なお、阪神間の川は大水害を起こしたことから治水工事が行われ、また、六甲山開発の土砂を浜の埋め立てに使うため、1965(昭和 40)年頃にはダンプカー専用道路が住吉川両岸を走った。今では遊歩道になっている。
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二枚目は、山側から望んだもので、洒落た欄干の道路橋がかかっている。橋の取り付きのところがふくらんでおり、ここが子供でも安全 に見られる特等席だ。何時間粘ったことか。
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三枚目の写真は一枚目の写真のさらに西方から駅方向を撮ったものであるが、望遠レンズなので圧縮効果で距離が詰まって見える。当時 の魚崎駅は各駅停車のみ停車の小さな駅であった。駅舎は地下にある。その昔、1970年以前は写真の地下へ降りる階段付近に駅改札があった。駅の浜側に は、灘五郷のひとつ魚崎郷がある。以前は古い酒蔵が残っていた。
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四枚目の写真は、魚崎駅浜側の地下改札入り口である。お巡りさんが写っているが、撮影した右に駅前交番がある。魚崎駅周辺は阪神電 車沿線ではめずらしく山の手的雰囲気の住宅地であるが、そのためか駅前には商店街がない。静かな雰囲気の駅である。奥には松の木が見えるが、さらに奥には 白壁の倉があった。
筆者はこちら側の改札通路を使うことはなかったので馴染みが薄いが。
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五枚目のみ1979年の写真であるが、今でもそれほど変わらない。魚崎駅から山側の道を梅田方向へ向かった所である。「思い出の魚 崎駅周辺」でお見せしている写真だが、筆者にとっては魚崎駅といえばこの風景を見ると「帰ってきた」気がする。この先に親戚の家があって、そこに滞在して いたからである。
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こちらは浜側から山側を見た構図の小さなガーター橋
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魚崎の親戚は震災後転居して、2003年当時は、摂津本山に住んでいたのですが、筆者は神戸に行くと、そこからこの魚崎駅まで2キロほどわざわざ歩くこと が多い。ちなみに阪神間では3本の鉄道が走っているので、駅まで2キロも歩くことなど無いと言って良い。筆者の住む横浜ではざらにあることですが。
ちなみに魚崎駅は今では六甲ライナーの接続駅で橋上駅舎となっています。
(2002年2月記述)

このブログは、「阪神電車の風景」という表題で1999年に作り始めたホームページが容量オーバーになってきたために「阪神電車の風景書庫」として増結したものです。しかし本家のホームページの運営会社があやしくなってきたので、少しずつ元の記事を移していきます。
また画像も、スキャナーで読み取った画像を1999年当時の遅いインターネット環境のため小さくしていましたが、せっかくなので、同じネガ、ポジからデジタル一眼カメラでデジタル化して大きく掲載することにします。 

 以下の記事は、1999年最初に作ったホームページの記事(思い出の魚崎駅周辺)です。


 思い出の魚崎駅周辺(1999年7月1日作成。2000年1月25日更新 )

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1983年7月30日「夏休みの阪神沿線」

そもそも阪神電車のファンというのも、鉄道ファンの中ではマイナーでしょうし、その中でも魚崎駅と いったところで利用者以外、一体何人の人がわかるでしょうか。魚崎は灘五郷の一つで有名な酒蔵も多いのですが、先の震災で古くからの酒蔵はなくなってしま いました。NHK朝ドラでやっていた「甘辛しゃん」の主人公が通っていた小学校が魚崎小学校だったので、この辺りの話なのかと思ったのですが、昭和40年 当時に魚崎に砂浜はなく考証が狂っていたのか、魚崎郷ではなかったのかは不明です。

筆者個人の思い出としては、ここに母の実家があったので幼い頃からよく行きまして、かならず阪神電車の魚崎駅を使っていたのです。父に実家のある三宮から国鉄の摂津本山駅、バスというルートもあるのですが阪神電車が好きな3歳の筆者は泣いて嫌がって阪神電車に乗らざるを得なかったそうです。
駅の横を流れる住吉川の橋から見る阪神電車は子供の目には電車の中の電車でして、颯爽と通過する西大阪特急や本線特急も然るこ とながら、各停の青い電車が日本一の加速度を生み出すモーター音で魚崎駅を発車する様は、今でも心に残っています。これが僕の鉄道趣味の根っこです。
 
さて、写真はまず1979年3月の写真に始まります。これは初めて買った一眼レフ(オリ ンパスOM-1)で最初に入れたフィルムの駒です。

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 魚崎駅西方に流れる住吉川のたもと山側から梅田方向(東)を狙ったこの構図は、子供の頃 から見てきた構図でして、駅舎が1970年前に改築された(駅改札上下別、踏み切り横断 から 駅改札地下化)以外はほとんど変わらない景色でした。

ここは梅田方向(下り)からも、三ノ宮方向(上り)からも上り勾配で一気に駆け上がり、下るのですが、一番高いところが住吉川鉄橋です。阪神間の川は天井 川が多く、川底より、周囲の土地の方が低いのです。ちなみに上流のJR東海道線は鉄道が川の下をくぐります。
阪神電車は明治の開業で、日本初の都市間電気鉄道として誕生しましたが、当時の軌道法の関係で梅田(当時は出入橋)、御影、三ノ宮付近は道路併用軌道(い わゆる路面電車)でした。その鬱憤をはらすがごとく、専用軌道では当時から高速運転がされていたようです。芦屋-魚崎間は阪神でも速度制限のない(最高速 度は現在106キロ/時、ATS導入以前はそれ以上で走っていた、らしい)最長区間であり、もっともスピードを出す区間なので、住吉川鉄橋を渡るスピード は(通過電車は)最高速度に近いわけです。それがガーター橋の左右に何もない所を走り、至近距離で見ればそれはすごい迫力でした。

上左に写っている新5001形は、デビューが1977年でまだ32両全部揃う前でした。 今となっては代替え廃車となった5201形であったなら良かったのに・・と思います。でも梅田行きの最後尾が5101形なので、ちょっと良かった。 (5201、5101形は1959年デビューで1960年生まれの筆者にとって同期生の思い入れがある車両なのでした)

駅舎の上の大きな二段の架線柱は、阪神電車の特徴の一つでした。戦前からこのような大掛 かりな設備を備えていた電気鉄道はそうなかったはずです。戦前は電力供給事業を阪神電車がやっていたことがあって、(収入としても大きかった)その電線 や、電車の運転本数が当時としては高密度であったことから、電圧確保からこのような大掛かりな設備を持つようになったと言えます。
いまや一種のモニュメントのようです。 

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2000年1月25日追記
同じ場所から撮った現在の写真です。(1999年10月11日)駅舎が橋上になってい て、六甲ライナーに接続しています。上に六甲ライナーの高架橋が見えます。橋は見えません。また防護柵が邪魔で電車が良く見えません。残念です。
 
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次の写真は駅の梅田方向を見たもので、浜側(南)と山側(北)の写真です。浜側の写真の 奥には倉が写っており(白壁の倉です。ちょっとこの写真では分りづらいですが)、これはおそらく戦前からあった倉です。山側の写真は、この細い道の先に母 の実家があったので、今でも懐かしい景色です。 
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さて橋の浜側から見ると六甲山が見通せる美しい光景になります。住吉川左右は遊歩道で、築堤上には桜並木があります。春はきれいです。上流は六甲山がそびえます。

こんな風景が大阪と神戸の中間で見られるのです。京浜急行の品川ー横浜間では残念ながら 見ることのできない光景です。

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青胴車5141形が写っている方(上)は1986年11月23日の、5261形(下)は1985年8月16日の写真ですが、ほとんど変わっていないのが わかります。 

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2000年1月25日追記
構図がちょっと違いますが、現在の魚崎駅浜側から山側を見た写真です。(1999年10 月11日)住吉川は両脇に遊歩道がありますが、これは昭和40年代、人工島、六甲アイランドを埋め立ての際、六甲山中腹の開発現場から海へ土砂を運ぶダン プカーの専用道でした。今では静かな遊歩道で、これはこれで良い景観なのですが、阪神電車も含めた風景になっていないのが残念です。何だか隠されたみたい。
 
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24ミリ広角レンズで山側を狙った写真は1983年7月の写真で魚崎駅周辺に数多くあっ た松がかなり減ってしまって、かろうじて残った松を入れて撮ったものです。住吉川西方から神戸方向を見たもので、この先住吉駅までの間にある大カーブは松原曲線というくらい松の多いところでした。明治時代の阪神の写真にここが写っていてうっそうと松が生えていました。線形は当時のままです。7701形の写 真は1985年3月のものですが左奥に松原曲線が見えます。 
1983年7月
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1983年7月
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1983年7月
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1985年3月
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2000年1月25日追記
松林の入った写真に近い構図で撮った現在の写真です。(1999年10月11日)

高架工事は、現在魚崎西方から下り勾配で降りた後、急曲線(松原曲線)で上り勾配にはい り、昭和初期の高架橋住吉駅に至る線形を改善するための工事です。ここは70キロ速度規制があって工事の必要性も分りますが松を残すことはできなかったの でしょうか。なお、この写真の線路は仮線で、海側に寄せてあり、山側に高架橋ができます。 

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最後に魚崎駅から梅田寄り青木(おおぎ)駅方向に少し行くと地平区間になるところの写真 です。ここは先ほど述べた架線柱が立派に見えるところで50ミリ標準レンズでなんとか全景を入れることができました。なお、新8000系の写っているのは 後年の写真で1992年3月のものです。 

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1992年3月
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1992年3月
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1992年3月
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2000年1月25日追記
そしてやや構図が違いますが、その後の同地点です。(1995年11月26日、1996年7月28日)実はこの付近にある魚崎市場は全壊し、道路沿いの家もかなり壊れたので、今でも空き地が目立ちます。写真を撮る時は空き地も入れた 構図も撮ったのですが、やはりここには出せません。特に1995年当時は撮影も控えました。さて、写真では架線柱が一段になってしまったので、以前のよう な構図で撮る意味もなく、平凡ですが、変化が分るでしょうか。
 
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これらの何気ない風景は長年に渡りのどかに魚崎駅周辺の風景としてあったので、そのとき はあまり意識して撮らなかったのですが、1991年六甲ライナー開通で魚崎駅が全面改築となり橋上駅舎になり、さらに1995年の阪神大震災後この区間の 架線柱が一段になってしまいます。あの倉も全壊してしまいました。そして1999年現在松原曲線の高架化工事で松林がなくなり、ついにこれらの写真は全く 再撮影ができなくなりました。 

1999年7月1日作成。2000年1月25日更新 

ケーブルテレビのベイ・コミュニケーションズから連絡をいただきました。
番組に拙ブログの写真を使っていただけるそうです。

歴史番組「ジモレキTV」
番組概要
「阪神電車篇」 更新頻度月2回、番組尺14分 ベイコム11チャンネル(放送エリア:大阪市西部・尼崎市・西宮市・伊丹市)
阪神電車「出屋敷駅」編
2022年1月1日~1月15日放送予定月曜日:11:00~ 水曜日:19:30~ 金曜日:20:15~ 日曜日:21:15~
出演者:武庫川女子大学 丸山健夫教授ほか

筆者は横浜在住なので直接見ることはできませんが、スマホアプリを使ってiPadで見ようと思っています。しかし、この番組、かなりディープな内容です。このブログでも参考にさせていただきたいと思います。

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